おはようございます。
昨夜から雨が降りまくり、つい先ほど(午前11時)沖縄地方の梅雨入りが宣言されました。これからしばらくの間、湿っぽい日々が続くわけであります。
さて、通勤時に見かける中高生の姿に、やたらジャージ姿が目立つなあと思いましたら、制服の代わりにジャージで登校しても良いというルールのある学校が増えているのだと、今朝の新聞に書いてありました。実にタイムリーな記事を有り難うございます。笑
ところで。
これについて、誤解を招きそうなのでアレですが、
ジャージ登校は正直やり過ぎだ。(*´Д`*)
と感じています。
制服について、制服しかなかった時代の学生であり生物学的性別も性自認も男性であるわたしと同世代には「カッコよい制服」を着るのがある意味でステータス、的な価値観はありました。
その価値観はファッション性の部分ですから、子どもであろうがオトナであろうが共感できると思います。
それから時代は経過して、制服だけではなく私服通学をも認める公立校が増えて、最近では、その学校の生徒であれば男女どちらの制服を着ても良いというルールも増えています。
そこで、ジャージ登校もOKですねときたのでしょうが、
まあ、やり過ぎですよね。(*´Д`*)
言っておきますけど、わたしはLGBTQについて当事者ではありませんが、そんじょそこらの発言者より段違いのレベルで理解しているつもりです。
何故なら、身内にも親しい人にも近しい人にもLGBTQの当事者がいて、日常的にその方々とコミュニケーションをとって生きているので。
さらには、生物学的性別がどうあれ、性自認や生き方というのは、その人の自由です。誰かに強制されるものではあってはならない。絶対に。と考えています。
しかしその一方で、現代はいろいろとやり過ぎな部分があるなあと感じてもいます。
そもそも性自認というのは性別があるから生まれるもので、性別には生物学的性別(XまたはY染色体に基づく話)と、社会的性別(いわゆるジェンダー論で話される性別)があるわけです。
男子は男子らしく! 女子は女子らしく! というのは、社会的性別のモデル化(ジェンダー)であり、これは人類の長い歴史のなかで、人が集団で生きる=社会の形成というところから生まれた、ある意味では役割分担であったわけです。
つまり、男は狩猟に出て獲物を獲ってくる、女は家を守って子どもを産む、というような役割分担の考えを指しています。例示が古臭くて申し訳ありませんが、わたしの知る限り、オスメスの区別がある動物の世界においては、同時に性別による役割分担も存在しています。これは事実です。
ところが現代では、性別による役割分担を非常に少なくできるというところに至っています。もう1回言いますね。少なくできる、です。
ハッキリ言えば「子どもを産む」ことは女性だけが持つ選択肢であり男性には無い選択肢で、そのほかのことについては(得意不得意はともかく)ほとんど男女の役割分担は無くてもいい、というところまで現代は来ています。
しかし、出産以外に男女の役割分担がなくていい、というのと、だから社会的に男女の区別をなくしてもいい、というのでは、意味合いが200%以上は違います。
そしてやり過ぎる人はだいたい、社会的に男女の区別をなくしたほうがいい、と考えている場合が少なくありません。
しかしわたしは、
むしろ「子どもたちのために、社会的な男女の区別はあったほうが良い。
と考えています。
自分が男子か女子かというのは、子どもの自我形成のなかで大きなポイントになります。そこを大人が曖昧にしてしまっては、むしろ、自分の性自認と生物学的性別と同じなのかどうかすら分からなくなる。
極論すると、社会的な男女の区別を曖昧にしてしまえば、
子どもたちが、性自認難民になる。
ということです。
それはアイデンティティの形成において大きな痛手となり得ます。
だから、
キミが男子でも女子でもどちらでもいいんだよ、何ならどちらでもなくてもいいんだよ、でも、男子か女子か自分に問いかけて、自分について理解しておこうね。
ということです。
自分が何者なのか、成長の過程で自分を理解していくこと。これは子どもの成長において非常に大きなステップなのです。
そのためには社会的な男女の区別は必要です。
むしろ、性別の話から逃げてはいけない。これはもはや社会課題です。
ジャージ登校を決めるのはやり過ぎです。性別の話から逃げているようにも見えます。
それならいっそのこと、
制服を廃止して、私服登校にすればいい。
のです。
制服とはなんなのか。
本当に必要なのか。
子どもたちに聞くよりもまず、大人が考えなければいけません。
そうです。
大人が考えなければいけないのです。
そのアイディアが欲しいときは深天舎まで。
それでは今日も頑張って参りましょう。
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