おはようございます。
最近は遠出が増えている深天舎・平良です。
共感される方も多いと思いますが、那覇市を出発して名護市と伊計島では、名護市のほうが早く到着します。
何故なら高速道路があるから、ですね。
全く個人的な感覚ですが、伊計島までの移動時間は、本部町か今帰仁村あたりまで移動するのと同じくらいかなと感じます。90分から100分くらいですね。
計ったことはありませんが(計ってないんかーい)。
さて昨日のお話。
性別変更の手術要件(性転換手術必須)は違憲である、という判決が最高裁で下されました。
これまでに最高裁で「法律そのものが違憲」とされた判例が11例あり、本件が12例目となるそうです。さらには過去11例は全て法律の変更がなされているため、今回も法律が変更されるのか、注目されています。
これは実に難しい問題です。
そもそも人間は生物界で生き残るために個体が寄り添って暮らすようになり、それが邑となり国となりました。
法律の発端というのは、個人が集まって社会となるプロセスにおいて、そこにいる全員が仲良く伸びやかに健やかに生きていくために明文化されたルールが必要となったことです。
そして、社会においていろいろな役割が生まれてきたのは、個人が自分の暮らしの全てをひとりでやるよりも、それぞれに分担したほうが効率的だから、です。
社会的役割=職業となったわけですね。
一方で、男性が家の外で、女性が家の内で、それぞれ役割を分担するという価値観は、大まかに言えば定住性の高い民族の社会的な特徴です。
定住性の低い(移動しながら暮らすような)民族では、家とは家族が今いる場所を指すだけで、特定の場所ですらなく、役割分担も家の外内ではなく、たとえば力が強い弱いとか、足が早い遅いとか、個人の能力に寄るものがほとんどでした(諸説あるでしょうけれども)。
あとは、子どもを生む能力があるかないか。ですね。
定住性の低い民族では男女の区別は子どもを生む能力があるかないか、ということだけでした(諸説あると思います)。
ただ、女性は子どもを生んでくれる存在、という認識だけは世界共通だったのでしょう。
子どもを生むか生まないかは全く個人の自由である、という考え方が広く認められるようになってきたのは最近のことです。
で、今回の問題は、性別変更について。
戸籍に性別を記載するのは、日本社会に特有の価値観に基づいているでしょう。
一方で社会的には性別が分かるほうが良いのは、混乱が起きにくくなるから、だと思います。
わたしは個人的にLGBTQについて理解があるほうじゃないかと思いますが、目の前の人の性別や性自認は正直に言ってどちらでも構いませんし、それらは完全に個人の自由であり他人が口出す話ではないと考えているところが、理解の元となっています。
ただ、要望がひとつ。
性自認をハッキリしてほしい。できれば性嗜好も。
ボクは男子でも女子でもない。中性だ。と言う人がいます。理解できます。尊重します。
では、生物学的な性嗜好はどちらでしょう。無くてもいいし、もちろん男女両方でもオーケーです。尊重します。
だから、ハッキリしましょう。
それだけで社会は混乱せずに上手く回るような気がします。
つまり、自分の性自認や性嗜好をハッキリと言える社会にすれば、戸籍上の性別に関わらず、社会全体が上手く回るということです。
戸籍上の性別変更の手術要件は違憲、と出ました。
もちろん憲法上は違憲にならないとおかしいのですが、そもそも戸籍上の性別などより人権上大事なことが、悩む人々を理解する、ということでしょう。
わたしは生物学上は男性、性自認も男性、性嗜好は女性です。
この3つを堂々と言える社会になることこそが重要なのだと考えています。
そしてそのような社会であれば、少なくとも戸籍上の性別変更など問題にならなくなるでしょう。
重要なのは社会であり、我々ひとりひとりの理解力であるのです。
名護市と伊計島では移動時間は同じくらいなのかもしれませんが、実際の距離と方角は全く違います。その違いを本質的に理解することと、性別についての問題を理解していくことは、同じであるような気がする今日この頃です。
うわ、今日は何学者なのでしょう。的な話しぶりで失礼いたしました。
それでは今日も頑張って参りましょう。
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